LEWD(50)

「梶谷さん帰って来てンの」
 事務所に漏れないように、声を殺していた私の耳に加賀見の寝惚けた声が飛び込んできた。握り込んだペニスがワイシャツの裾を弾くほど跳ね上がる。田上さんさえ居なければ彼をここに招き入れて物も言わさず犯してしまうところだ。
「……ぅ・ッく…………!」
 天井を仰いで腰を突き上げる。濡れた掌を見立てているのはlewdの唇なのか吉村の尻穴なのか、それとも加賀見の物なのかもう定かではなくなってきた。
 狭い便所の中に響く粘着質な水音が、私の耳にはひどく大きく聞こえた。昨晩ずっと聞いていた吉村の肉を穿つ音と記憶が一緒になって、下肢からの熱が一気に上り詰める。声が溢れてしまいそうで、私は残った理性で唇を噛み締めた。
「便所?」
 田上さんと会話しているのであろう加賀見の声が鈍く響いてくる。室内の濡れた物音と綯い交ぜになって私の耳を通過して行く。
「――……ッ、ぅ……!」
 射精の瞬間私は反動を付けるように前屈みになり、便器の中にザーメンをぶちまけた。薄くなってはいるが、量はそれなりのものだった。

 身形を正して手を流し、何食わぬ顔で便所の扉を開くと加賀見は背を向けて座っていた。子供のように、実に判り易い反応だと感じた。
「昨日は勝手をしてすいませんでした」
 私が声を掛けると漸く仕方がないという風を装って振り返る。顔は顰めているが、それは本心に間違いないだろう。
「まー、いーんじゃねーの、アンタは元々本社の人なんだしさ」
 田上さんは黙って顔を伏せ、我々の遣り取りをやり過ごそうとしているようだった。彼女がいる前で加賀見と話すことはひどく気を使う。それは社長にしても同じことだった。二人きりで居れば悪態をつかれても黙らせることは簡単だし、それ以上に彼らが加賀見を恐れていることが私にはやり難くて仕方がなかった。
 どうして今まで誰も加賀見を叱ってやらなかったのだろう、そう思うほど彼が不憫に思えて仕方がない。彼の乱暴に眼を瞑って、彼のしたいようにだけさせることが彼のためになどなり得ないのに。親の躾けの基本なのではないだろうか。
「そうだね、いつかは本社に戻るかも知れない」
 私は加賀見に告げて自分のデスクに戻った。
 吉村は今頃どうしているだろうか。専務を誑しこんでいるのか、それともまだ近付く機会を伺っているのか。吉村の淫靡な表情を思い浮かべた。私の前で見せる表情と他の男を誘う表情は違うのだろうか。相手によって使い分けるくらいの強かさは彼ならお手の物だろう。
「……ンだよ、それ」
 暫く口を噤んでいた加賀見が唖然としたような表情のまま呟く。田上さんの肩が強張って震えた。
「昨日と言ってること違わねェ?」
 視線を上げると、加賀見は目元を紅潮させて唇を震わせていた。田上さんはただ固まってしまって、伝票を繰る手許も止まっている。
「あの後事情が変わったんだ」
 下手に彼を刺激するつもりはなかった。田上さんに申し訳ないという気持ちで。しかし加賀見の戦慄いている唇を見ると、つい黙らせてやりたくなった。
「――私が居なくなれば加賀見さんも清々するんじゃないですか」
「!」
 加賀見が弾かれたように席を立つ。田上さんが背中を丸めた。
 怒り心頭という風な彼の目許が潤んで見える。まるで駄々を捏ねる子供だ。今まで自分の行いの所為で他人を幾らでも遠ざけてきたのだろう、それでもこんなにあからさまに他人に執着することが出来るのは羨ましいとも言えた。私にほんの少しでも、そんな感情表現があれば良かったのに。
「あぁ、……清々するよ!」
 加賀見は搾り出すような声で怒鳴ると机上のペン立てを床に叩き付けて踵を返した。二階にでも上がるのかと思ったら、そのまま背後の便所に飛び込んでしまった。