LEWD(53)

 入り口で暫し黙り込んだ私は、首に締めたネクタイに指を掛け、緩めながらゆっくりと部屋に歩み入って後ろ手に扉を閉めた。
 二階の廊下にまで震動のように鳴り響く工場の機械音が幾らか鈍くなり、加賀見の躰の形に盛り上がった布団の上掛けが僅かに震えたようだ。
「……ッ、勝手に入ってくんなよ!」
 聞こえた怒号は布団の中からで、顔すら覗かせようとしない。まさか子供のように泣いているわけでもないだろうが、同じことだ。私がこれから泣かせてやるのだから、結果は変わらない。
「加賀見さん、聞いて下さい」
 私は簡素なパイプで組まれたベッドの脇に膝を突いて静かに声を掛けた。加賀見は布団の下で身動ぎ、躰を小さく丸める。
「工場は本社に切り捨てられます。
 ――現に幾つもの下請工場が既に切り捨てられ、倒産しているんです」
 本社内でも大幅なリストラが行われ、実際に私は此処に飛ばされてきた。切り詰めるところを全て切り詰めて、本社も建て直しを図っているのだ。昨日見て来た本社の目まぐるしい忙しさは、恐らく最小限の――或いはそれ以下の――人数で通常通りの業務をこなしている所為だろう。
 恐らく本社の都合など、加賀見に言っても判るまいが。
「この工場だって例外ではありません。勿論本社に切り捨てられたからって倒産に直結するわけではありませんが、今の社長が現役を引退した時、若社長が」
「うるせぇよ」
 くぐもった声で加賀見は私の言葉を遮った。そんなことはとっくに知っているという風だ。彼なりにこの不景気の風向きくらいは感じているのかも知れない。身に染みているという程ではないにしろ。
 判ってはいるが、深く考えたくないというのが本音か。明日起こるかも知れないことは明日起こってみてから考えれば良いという日和見主義。都内の一部の若者だけに限った話ではないようだ。誰だって――私だって、こんな状況からは眼を背けたいに決まっている。
「別に工場がどうなろうとアンタの知ったことじゃないだろ」
 拒絶の色濃い低い声。拗ねた子供の戯言にしか聞こえないこともないが、実際私もその罪悪感に囚われて吉村に無茶な頼みごとをしたのだ。
「――私を本社に連れ戻したいと言ってくれている後輩がいます、
 私は昨日彼に頼み込んで、この工場を切り捨てられないように働きかけて欲しいと頼みました。今は結果を待つだけです」
 眼を伏せると、吉村の伏せた顔が浮かんだ。とても彼の痴態を思い出す気にはなれなかった。専務とのコトが済んだと彼から連絡が来るまでは。
「別に工場がどうなろうと知ったこっちゃねぇんだよ!」
 怒鳴り散らすように声を荒げ、加賀見が上体をベッドから起こした。噛み付くような視線を私に向けて来る。
「工場が潰れりゃ俺はこんな家とっとと出て行くんだ、それだけだ」
 絞り出すような声。現実をこうして突き付けられることは彼がもっとも恐れていたことだろう。親も友達も、彼に面と向かって教えてはくれないのだろうから。加賀見が私に感謝するなどとは思わない。見て見ぬ振りする人間ばかりだった彼の周囲の人間と異質な私は、恐らく酷く疎まれているのだろう、或いは恐怖すら覚えているかも知れない。
「後輩がうまくやれば、私は本社に戻ることになります」
 加賀見が口を噤んだ。もう帰れと言わんばかりに背けられた顔に、私は屈み込んだ体を起こして立ち上がった。
「それで、何もかも元通りです。――嬉しいでしょう?」
「!」
 見下ろした私の眸を振り向いて加賀見が激昂のためか顔を赤くした。
 私は本社のデスクに座り、定時までに仕事を終わらせて帰る。時には吉村と夕飯を一緒にして互いの家を行き来するかも知れない。工場は今まで通り本社に流す部品を作って毎日機械音を響かせる。加賀見の我侭に誰もが閉口し、見て見ぬ振りをする。私の変わりに事務員が一人増えるかも知れないが、加賀見はその人物をもいびり倒すだろう。何もかもが元あった位置に戻るだけだ。
「……るせェな……っ、――同じこと何度も言わせんなよ、あんたがいなくなるなら、俺だって清々すんだよ!」
 言うと、加賀見は再び布団を被ってベッドに伏せた。強張ったように体を丸めている。彼を傷付けるほど近くに寄った人間は、私が初めてだったのだろうか。
「……勃起してるんだろう?」
 私が低い声で告げると、布団がまた揺れた。ベッドを見下ろしたままで緩く腕を組む。 
「何、……早く下戻れよ、……サボってんじゃねぇ」
 返ってきた言葉は弱々しく、震えているようにすら思えた。もうすっかり尻の疵も癒えただろう。一度男の味を覚えた彼は一人で自慰に励んだだろうか。
「どうせ一人で抜くつもりだったんだろう、やって見せてみろ」
 どうせ、何もかも私の責任なのだから。