LEWD(6)

 吉村の言う通りデジタルカメラは見違えるほどコンパクト化されていて、しかも安価だった。結局は操作に疑問が生じた時便利だという理由で吉村と同じものを購入することにしたが、予想していた支出と実際の支出に開きがあり、私は予算の残りでワインとつまみを買って自宅へ戻った。一緒に飲もうと言って聞かない吉村も勝手に後をついてきた。
 自宅に吉村を招き入れる――正確に言えば勝手に上がって来る――のは初めてのことではない。吉村が入社してきた時、既に私はこのマンションで暮らしていたし、係長が倒れて吉村が私と最も懇意にしていた時は何度か此処へ泊まったこともあった。
「梶谷さんもようやくカメラマンですね」
 気さくにしていても吉村は随所随所で礼儀を弁えた。部屋に上がる時は挨拶をするし靴も揃えるし、当たり前のことなのかも知れないが、吉村の育ちの良さを伺わせた。
「何を撮るんですか?」
 ダイニングテーブルしかない部屋の中央に座布団を敷いて腰を下ろす。人を呼ぶときはいつもそうしていた。家具が最小限しかないこの部屋ではこれが一番広い空間を感じることが出来るのだ。
「お前は何を撮ってるんだ?」
 ワイングラスと、つまみを開ける皿を用意すると私は立ち上がってまず煙草を銜えた。
 パソコンを立ち上げてメールをチェックしたいという気持ちが、ふと心を過ぎった。今まで感じたこともない感情だった。lewdから返信が来ているかも知れない。そう思うと胸がざわめく。
「僕は、飼ってる猫とか――あと予定のない休日なんかは無理矢理被写体を探して出掛けたりしますよ」
 買って間もなくの内だけなんでしょうけどね、と吉村は笑った。
「恋人を撮ったりしないのか」
 私は紫煙を吹き上げながら何気ない風を装ってパソコンの電源を押した。もし返信が来ていたらどうするんだ。吉村のいる前でlewdに欲情するわけにもいかない。
 しかし、もし今返信が来ていたとしたら……吉村がlewdである可能性はなくなる。
「恋人なんかいませんよ」
 苦笑を漏らしながら吉村は頭を掻いた。あれだけ社内の女性の人気を受けても誰かを選ぶことをしないのはどういうわけだろう。
 私は椅子に腰を下ろしもしないでマウスに手を伸ばした。吉村は私の動きを気にも止めていないようだ。悪いことをしようというのではない、ただメールチェックをしようというだけなのに、私は吉村に勘付かれないように事を運ぼうとしていた。
「誰かいい人はいないのか」
 指先で摘んだ煙草をフィルターぎりぎりまで吸って灰皿に落とす。中には常に水が張ってあって直ぐに消火されるようになっていた。メーラーのアイコンをクリックする。前もってスピーカーの電源はオフにしておいた。
「実家の両親みたいなこと言わないで下さいよ~……」
 吉村はワインの栓を引きながら心底困ったように肩を落とす。実家からは見合いの話でも来始める年かも知れない。学歴は良いし就職先も有名企業、顔だって女性受けするだろう。ある程度は選びたい放題なのではないか。
「僕、追いかけ回されるのは嫌なんですよね」
 赤ワインをグラスに継ぎながら吉村がぽつりと言う。そういえば先日吉村の誕生日には女子社員が各所で噂話をしていたようだ。吉村と親しくしている同僚には吉村が何を貰えば喜ぶかというリサーチの根回しも熱心だったらしく、勿論私の所にもそれとなく質問が来た。私は知らない、と答えたが(実際知らなかったのだが)結局女子社員各位は何をプレゼントしたのだろうか。
「愛されるよりも愛したいって言うか……」
 吉村はつまみのチーズを更に置きながらぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
 lewdからのメールは、なかった。
「贅沢な悩みだな」
 私が揶揄うと弾かれたように吉村の顔が私を仰ぐ。
「あ、そういうつもりじゃ……!」
 慌てたように何のかんのと取り繕おうとするが、私だって別に責めているわけじゃない。
「判ってるよ、追いかけ回されるよりも追いかけ回す側だってことだろう」
 パソコンの電源を落として、床の上のグラスに手を伸ばす。背中を屈めると吉村がいち早く察知してグラスを差し出してくれた。
「お前は犬みたいだからな、何となく判る」
 私はフォローのつもりで言ったのだが、吉村は犬ですか?と心外そうに膨れて見せた。自分の興味のない物にそっぽを向くような猫ではないが、周囲に愛想も振りまきつつ自分の一番好きな物にはそっぽ向かれてもじっと待つ、犬のような男だ。
「フリスビーでも買ってやろうか、この間誕生日だったんだろう?」
 グラスに品良く注がれたワインはほんの三口で空になってしまって、私は床の上に腰を下ろすと自分で二杯目を注ぎ足した。
「覚えてくれてたんですか?」
 目を丸くさせて吉村が素っ頓狂な声を上げた。確かにそんな反応も無理はない。誕生日の当日に昼食を一緒にとろうという、吉村のあからさまな誕生日プレゼントを欲しがる行為も私は無下に断ったのだ。彼の誕生日の予定を知りたがる女子社員の攻撃を避けるためにはやむを得なかったのだが。
「あれだけ騒がれちゃね」
 私は二杯目のワインも二口で空けた。あまり高価な酒をじっくりと味わって飲むのには向いていない。ワインの香りを楽しんだり、日本酒のキレを味わったりするよりもとにかく飲めれば良いというタイプだ。だからビールで良いのだ。
「……すいませんでした……」
 急に吉村はしゅんとなる。各所から苦情でもきていたのかも知れない。
「誰か一人に決めてしまえばそんな問題も起こらなくてすむんじゃないのか」
 ただでさえ若くて未婚の男性社員自体が少ないのに、その中で恋人もいないのはほんの一摘みくらいのものだ。その少数の中に有能有望、礼儀も正しく人当たりも良い吉村がいたら目を付けるなという方が無理なのかも知れない。追われるのが嫌ならそんな吉村にも興味を示さないような女くらいいる筈だ。それを狙えば良い。
「今は仕事の方が楽しくて……恋人とか出来たら、気を使わなくちゃいけないでしょう? デートに行ったり記念日を覚えたり……会社帰りの好きな時に飲みに行くのも憚られるし、休日だって潰れるし……僕本当に好きな人にでもなきゃそんなの耐えられないですよ」
 気が付くと吉村もワインを何杯かいっていたようだ。酒に弱いということはないと思うが、吉村は酒が入ると饒舌になる傾向があった。それでも本人は酔っていないから、翌日にすいませんすいませんと謝り倒す。これくらいの本音なら言うべきだと思うが。良い息抜きになる。
「今までの女性経験があまり良くなかったみたいだな」
 斯く言う私だって人のことを言えたものじゃない。他人のことだから言えることもある。それに、私はもう二度と結婚をすることもないだろう。独り身も慣れてしまえば案外気楽なものだ。若い頃のように一人で寂しいなどと思うこともない。慢性的な虚しさがあるだけだ。
「吉村」
 まだぶつぶつと何か言っている吉村はワインの瓶を傾けてグラスを満たしていた。誕生日によほど不快な思いでもしたのかも知れない。女性の競争心は、こと男が絡むと醜いことがある。
「はい」
 顔は酔っていない。本人も酔っていないと言うだろうし、足腰もしっかりしているのだろう。返事だってしっかりしたものだ。でも今なら、本音がするりと滑り出してくる筈だ。
「lewdは、お前か?」