LEWD(63)

 若社長の姿がないと社長が血相を変えたのは翌日の朝だった。
 田上さんは夜の内に連絡を受けたようで、社長の細君に寄り添っていた。工場の従業員達は警察に届け出たのかなどと口々に彼の行きそうなところを社長に提案している。
 昨日私が鎌を掛け、それに引っかかった彼が二階に上がって行ったきり姿は見ていない。彼が事務所にいないのはいつものことだから社長も夜になるまで加賀見がいなくなっていることに気付いていなかったらしい。
 「一日帰って来ないくらい、騒ぎ立てるほどのことではないでしょう」
 相手は小学生ではないのだ。外泊することくらいあるだろう。女が出来たのかも知れないし、或いは男かも知れない。私が社長に取り合わず席に着くと、工員も騒ぎ立てることを止めた。
 工員達の中に加賀見を本気で心配していた人間なんているのだろうか。社長には恩があっても、その息子は邪魔だとか社長が代替わりをしたら工場を辞めると言う者ばかりだったのではないか。
「しかし、こんなことはなかったから……」
 田上さんに縋り付く様に腕を回した細君が呟くように言った。
 あんな風に人と外れた若者を気取る青年なら無断外泊など当たり前かと思っていたが、そうでもなかったようだ。彼に付き合いきれる友人も女もいなかったということだろうか。それとも近所に繁華街がなかったからというだけの理由だろうか?まさか童貞だったなんて言わないだろうな。加賀見が帰ったら尋ねてみようか、と思うと唇が綻びそうになった。
 「携帯電話に連絡はしてみたんですか」
 笑いそうになる自身を堪えるように口を開くと、はっとしたように田上さんが事務所の電話に飛びついた。工員達は社長を気に掛ける素振りをしながらも工場に戻って行く。それで良い。放蕩者の二代目が遊んでいるくらいで工場を休まれては困る。
 「……繋がりません」
 田上さんが下唇を噛んで答えた。その送話器からは電波状況や電源の案内ではないアナウンスが聞こえていた。現在その電話番号は使われていないというものだ。まさか携帯電話を解約してまで行方を眩まそうというわけではないだろう。加賀見にそこまで思い詰めることなどあっただろうか。
 「番号をお間違えじゃありませんか」
 私は溜息が零れそうになるのを堪えながらスーツの内側から自分の携帯電話を取り出した。電話帳を見ながらプッシュボタンを押すよりは電話帳からそのまま掛けた方が正確だ。無論、着信拒否でもされていたらどうしようもないが。
 私は滑稽にも見えるほど心配を募らせる社長に背を向けて発信ボタンを押し、電話を耳にあてた。
 鈍く響く呼び出し音。繋がりました、と視線を背後に向けると田上さんと奥方は顔を見合わせた。呼びだし音は拒否される訳でもなく留守番電話サービスに繋がるでもなくただ鳴り続けた。田上さんの手許にあった事務所の電話帳に首を伸ばして覗き込む。そこには私の知る加賀見の電話番号とは違う番号が記されていた。
 息子の電話番号が変わったことも知らない両親が、たった一晩の外泊をこんなにも騒ぎ立てる――まるで出来損ないの喜劇ではないか。自分の思い通りになる親の手の中を抜け出し、自分の思い通りにはならない社会に出て行った息子を、寧ろ親は喜んで送り出してやれば良いのだ。
 「出ませんね」
 固唾を飲む三人に告げ、通話を切ろうとした時、携帯電話の表示が変わった。加賀見が電話に出たのだ。私は慌てて電話を耳に戻した。
 「加賀見さん」
 慌てた拍子に、まるで私まで飛びつくような声になってしまった。電話の向こうには喧騒が広がっていた。
『よー、梶谷さん。オヤジ達ビビってンだろ?』
 電話の向こうから聞こえる加賀見の声は酔っ払っているように陽気なものだった。いや、実際に酔っ払っているのだろう。呂律が回っていない。さしずめ両親に対する悪戯心からの夜遊びということなのだろうか。
「加賀見さん、今何処ですか? 就業時間始まってますよ」
 呆れたように溜息を吐き、諌めてやると社長ははらはらした表情で私を見た。私が彼に注意をすることを彼は快く思っていないのかも知れない。田上さんと同様に。
『今? 此処どこっつったっけ? ――えーと……ヴィーナス?』
 陽気な加賀見の笑い声は私の携帯電話から社長や奥方にも漏れ聞こえているだろう。私はデスクに肘をついて掌を頭に回した。
「それは何処の店ですか?」
 加賀見の後ろでは水商売の女性特有の甲高い笑い声が聞こえた。笑い声を文字にしたような、笑っていることを主張しているような笑い声だ。客と話していることが楽しいのだと客に伝えるためなのか、それとも今、楽しい気持ちなのだと自分に暗示を掛けるためなのか知らないが、私には耳障りな音に聞こえた。
『東京だよ、梶谷さん知らねぇの? ヴィーナス』
 知るわけがない。東京には幾つもそんな店があるのだから。
「今東京にいるんですね」
 東京の何処だ、と続けようとして私は言葉を飲み込んだ。
 ヴィーナス。幾らでもありそうな店名であることに変わりないが、聴き覚えがないとは言い切れなかった。
「柊は東京にいるんですか?」
 細君が私の携帯電話を取り上げたそうに腕を伸ばしながら訴えた。帰ってきてくれと懇願でもするつもりなのだろうか。ものの一時間やそこらで行ける場所では無いか。家出したわけでもないのに、この親は何そんなに怯えているのだろう。それとも、心配かけたことに対して怒鳴るつもりでもあるのだろうか。
『俺、暫くそっちには帰らねぇよ』
 母親の声を耳の端にでも止めたか、加賀見は電話の向こうで飲み物を嚥下しながら言った。
 ヴィーナス。私は何処でその店名を耳にしたのか頭を巡らせながら、奥方の手を避けて席を立った。社長が怪訝そうに私の背を視線で追う。
 ……ヴィーナス。
 妻と別れたばかりの私を気遣って同僚が連れて行ってくれた店の名にそんなものがなかっただろうか。
 額にじわりと汗が滲んだ。時計の針が九時半を回ろうとしている。窓の外は曇り空だし、暑いわけでもないのに私は空いた手で額を拭った。
 一度や二度酒を飲みに行っただけで女を買ったわけでもないが、会員証を作らされて今でもダイレクトメールを送ってくる店の名は――ヴィーナスと言わなかっただろうか。
 加賀見がlewdのメールを盗み見た際にその店名を見つけ、そこに酒を飲みに行ったのだ、ただそれだけのことでは無いか。ただそれだけのことに私の胸は何故か逸った。
「加賀見さん、――一体東京まで、何をしに……?」
 尋ねた私の声が知らず震えた。
 電話から加賀見の笑い声が響いた。
『lewdを探すためだよ』