LEWD(64)

 電話を切った私を責めるように田上さんが近付いて来た。彼女にしてみたら自分の息子同然なのかも知れない。本当の母親も田上さんも、彼を叱ってやることはしない癖に。
 「若社長は、一体何をしに……? いつ帰ってくるんですか?」
 表情を覗き込まれて、私は平静を装った。
 「暫く帰ってこないそうです、私が先日東京に行った話をした所為で自分も行きたくなったのでしょう。
 ――申し訳ありません」
 謝る義理はないが、私の所為で彼が東京に行ってしまったことは事実だ。社長を心配させたことは素直に申し訳ないと感じている。しかし私の心の中は穏やかなものではなかった。
 ――『lewdを探すためだよ』
 ほろ酔い気味で、陽気になった加賀見の声。それが私の耳から離れない。彼の、私に一矢報いてやったという表情すら目に浮かぶようだ。
 一体lewdを探してどうしようというのだ。彼に手掛かりでもあるというのか?
 ……私は何故こんなことで焦燥感を感じているのだろう。
 lewdからのメールが届いて以来、吉村を抱き加賀見を犯してきた私の心の均衡が、崩れて行く気がした。
 加賀見がlewdに逢ったらどうするだろうか。lewdはどうするだろうか。
「梶谷さん」
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。加賀見のすることだ。思いついて家を出てみたものの、何の手掛かりもないのに決まっている。手掛かりもないのに、私を揶揄って束の間、愉しんでいるだけじゃないか。他愛のない、子供の悪戯だ。
 殆ど自分に言い聞かせるような思考回路が同じ場所を迷走し始める。
 しかしもしも、加賀見が何らかの手掛かりを掴んでいるとしたら? 彼のインターネットブラウザのブックマークが脳裏を掠めた。
「梶谷さん!」
 飛び付く様にして机に戻った私を社長の声が呼び止めた。目の前で掌を叩かれたのかと錯覚するような、凛とした声だった。工場の機械音が重なる中でもよく通る声だが、初めてこんなに間近で聞いた。
 我に返った私はパソコンの電源に伸ばした腕を止めて社長を仰いだ。
「……お恥ずかしい話ですが、」
 私を引きとめた声とは裏腹に、社長は顔を伏せて肩を落としていた。初老の男性特有の、体の小ささが際立った。彼もそう長くはこの工場を続けられないだろう。そう思うと、胸が詰まった。
「柊は私達の言うことを聞かない、
 ……梶谷さんもとっくに気付いていると思いますがね、私達は駄目な親なんですよ。柊を大切に思うあまりあいつの我侭を何でも聞いてきた」
 そんなことはない、と田上さんは即座に首を振った。私はそんなことをすることも出来ず、しかし肯定もしなかった。私は子供の育て方など知らない。愛して結婚した筈の女に産ませてやることすら出来なかったのだから。そんな私が項垂れた社長に告げる言葉はなかった。
「いつか柊は工場を捨てて自分の生きたいように生きるだろうと思っていました、
 ……でもこの工場の良さも教えてやりたかった、尊敬できる父親ではなかったかも知れないが――工場のことは愛して欲しかった。
 だから、工員や事務員には疎まれていることを承知であいつを会社に入れたんです」
 田上さんが奥方をオフィスチェアーに座らせた。線の細い彼女は工場にも事務所にも滅多に顔を見せることはなく、体の弱い人らしかった。
「柊が東京で暮らしたいというならそれでも構いません。
 いずれこの工場はなくなるのだから――……そうでしょう?」
 不意に同意を求められて、私は田上さんを見た。彼女も奥方の後ろから私を見ていた。
 私は小さく肯いた。
 しかし吉村が何とかしてくれるかも知れない、そう思う気持ちはあった筈だが、所詮焼け石に水だ。社長が引退して若社長が跡を継ぐとなれば仕事の発注があったとしても働こうとする工員に恵まれるかどうか判らない。吉村の躰を利用して私が工場を残そうとしたのは一体何のためだったのだろう。ただの自己満足か。
「柊に残してやりたいと思っていました、でも
 工場を継ぐのも、この土地を売るのもあいつに任せようと思っていました」
 社長は大きく息を吐いた。一人息子の小さい頃でも思い出しているのかも知れない。
 親にとって子供とは何だろう。私は子供だったことはあっても親だったことはない。年齢だけ重ねても、何か自分には足りないものを感じた。私には、成長を見守ることで思い返せる過去がないのだ。
「…………柊の好きなように生きて欲しい。
 でも、今はまだ――工場が残っている内は、此処を見ていて欲しいんです。機械が止まる日を、あいつに見届けてもらいたい」
 親の我侭ですけどね、と社長は弱々しく笑った。工場では相変わらず規則的に機械音が響いている。
 社長が私に何を言いたいのかは判っていた。田上さんも黙って私を見ている。奥方が青白い顔を上げた。
「――……東京に行ってきます」
 私は彼らに促されるように言葉を紡ぎ、席を立った。