LEWD(67)

 先に荷物置いて良いですか、と紙袋を掲げた多田の掌が赤くなっていた。
 あんな風に立ち話する羽目になるとも思っていなかったのだろう、彼は話している最中一度も紙袋を下に置こうとしなかった。
 私がその掌を見て詫びると、屈託ない笑顔が良いですよと答える。女性に受けそうな好青年だが、――私はそこで再びパソコンのディスプレイを思い出して胸中苦笑した。彼自身があれを書きこんだものかどうかも定かではないのに。
 知らない内に私の個人的なメールアドレスが誰かに漏れlewdに辿り付いたように、彼の書き込みもまた、誰かの悪意による悪戯なのかも知れない。勿論そんなことがあってはならないのだが、俄かには信じ難い。
 メールアドレスの件で彼が私に進言してくれた時、彼は「いかがわしいサイトに書き込まれでもしたら」と言った、それは彼自身が被った迷惑なのかも知れない。
「ちょっと待ってて下さいね」
 多田は私を戸口に待たせるとIT部と書かれた扉を潜って荷物を置きに行った。
 暫く出てこられないかも知れないという気がした。何しろ彼はいつも忙しそうにしているからだが、案の定彼が室内に入ると人の声が幾重にも折り重なった。
 まるで知らない場所に来ているわけでも、知らない人間に逢いに行くでもないのだから私が吉村に逢いに行くまで彼が付き添う必要などないのだ。私は多田を急かせるのも心苦しくなって、戸口から声を掛けた。
「多田君、引き止めて悪かったよ。また今度、飲みにでも」
 紙袋から私には得体の知れない精密部品のようなものを取り出している多田を呼び止めると、そういって去ろうとした私を多田が追ってきた。パソコンに齧りつくように仕事をしている同僚の間を器用に擦り抜けてくる。
「俺も行きますって」
 また人懐こい笑みを見せる。吉村が入社して来た時、多田という同期を紹介されたことがあったがその時、今と同じように彼は笑った。私は彼らを兄弟のようだと思った。こういった人懐こさが、今でも似ていると感じる。
「いや、でも忙しいだろう」
 彼を拒んでいるわけではないと気遣いながら答えると、多田の笑みが困ったように歪む。
「でも、実際はさっきみたいにパシリみたいなもんですよ」
 背を丸め、声を潜めながら多田が悪戯っぽく不満を言う。実際そうではないことを知っているが、私は彼の気安さに釣られてご苦労様と同情するように肩を叩いた。
 そうしている内に扉の奥から多田を呼ぶ声が聞こえた。多田の背が大袈裟にピッと伸びる。
「梶谷さんすんません! ちょっと待ってて貰えませんか」
 爪先を部屋に向けながら早口で捲し立てる。私はスーツの胸を叩くと苦笑を浮かべ、
「じゃあ喫煙所にいるよ」
 犬のような多田を断るのも気が引けてそう答え、踵を返した。

 久し振りに入る喫煙所には、殆ど人気がなかった。壁に掛かったヤニだらけの時計を見上げるともう昼休み近い。今抜けるぐらいなら昼まで耐えようという勤勉さによるものなのか、或いは近年の喫煙者排除の世情によるものなのだろうか。
 私は本社にいた時と同じように壁に背を預けて煙草を探った。工場に行くようになって以来喫煙量も減ったが、今となってはこれくらいしか金を使う途もない。
 惰性で続けた悪しき習慣を唇に運びながら、私は駅で仕舞った携帯電話を取り出してメールの続きを打ち始めた。
 lewdが何処で何をしている人物なのか知らないが、今メールをして、都内に来ることが出来る人物ならば夜には逢えるだろうか。加賀見を連れ戻せるのは何時になるだろうか。
 私は努めて事務的にlewdへのメールを打った。加賀見の為に彼に逢うのだとしたら、lewdにとって失礼になるだろうし、しかし私が出来るならばこんな形で彼に逢いたいと思っているわけではないことも事実だ。
 紫煙を胸の奥深くまで吸い込むと体中の血管が収縮して行くのを感じた。頭が冴えて行く気がする。そんなのは気のせいかも知れないが、その感触が忘れ難くて私は煙草を止められないでいるのだろう。
 lewdへのメールを打ち終えると、私は煙草を灰皿に押し付けた。時計の針が十二時前を指している。昼休みになって多くの社員が部屋から出て来る前に何処かへ身を寄せたいものだ。あまり本社の人間に逢いたくない、と感じた。先日の居心地の悪さを思い出す。いずれ吉村が私を此処へ呼び寄せようとしてくれているのは有難いことだが、果たして私はそんな風に此処へ帰ってきて嬉しいものだろうか。
 雑念を振り払うように顔を伏せ、私は喫煙所を出た。
 妻を寝取られた私は、この世に自分の居場所がないように思った。妻の胎内にいる子供さえ自分を必要としていないのだと感じた。しかしあの時はまだ、会社が私を必要としていた。
 今の私を誰が必要だと言うだろうか。吉村が私を会社に呼び戻したいのは、私を必要としているからだろうか?
「梶谷さん、お待たせしましたー」
 能天気そうな多田の声が頭上から降ってきた。走って来たのか、息を切らしている。メールアドレスの件にしてもそうだが、本当に律儀な男だ。
「忙しいのにスイマセンね、でもほら、夜だと空いてないでしょ?」
 まだ私が女に逢いに行くと思っているのか――否定はしていないから仕方がないという気もするが――多田は笑いながら廊下を歩き出した。
 幾ら私が人目を避けても吉村を迎えに行けば部署の人間には逢ってしまうのだろう、考えると気が重くなった。こんな風に間を空けず吉村に逢いに来た私が、いずれ吉村によって本社に戻ることでもあれば係長の不安が一層確信へ近付くだろう。そしてその確信も今となってはまんざら間違いじゃない。問題は私が吉村に媚びてそうしているのか、吉村が自らそうしているのかの違いだけだ。
「あ、」
 自然と口が重くなった私の半歩前で、多田が再度素っ頓狂な声を上げた。忘れた仕事でも思い出したのかと顔を上げると、廊下の先には私達がこれから逢おうとしている吉村の姿があった。
「丁度良かった、――」
 多田が片手を上げる。私はその腕を掴んで下ろさせた。
「多田君」
 声を潜め、廊下に面した資料室に多田の腕を引いた。不意に腕を引かれた多田は容易に体のバランスを崩して扉の中に身を寄せる。
「梶谷さん? どないしたんですか」
 薄暗い室内で目を丸くする多田の口を、私は掌で覆った。息を潜めて廊下の外の気配をやり過ごそうと必死だった。
 私も社報などで知るくらいだ、多田が知る筈もないだろうし、また知っていたとしても隠れる程のことじゃないと思うだろう。しかし私は逢うわけにいかなかった。
 吉村の傍らには、専務が立っていた。