LEWD(74)

 私は、手にしていた携帯電話を閉じて咄嗟にポケットの中に仕舞った。さすがの多田も言葉を失っているようだ、私の半歩後ろで硬直している。
「か……、じたに、さん?」
 左腕に分厚いバインダーを抱えて資料室の扉を開いたのは、吉村だった。
 居る筈のない私が唐突に姿を見せたので、驚いて立ち尽くしている。私も、そして多田も、同じように立ち尽くすしかなかった。
「……いらしてたんですか」
 先に口を開いたのは吉村だった。何か安堵したように、小さく息を吐いて笑う。彼なりに気を張っていたのだろう、吉村は昔からそういうところがある男だった。周囲から期待されて入社したのだから無理もないが、そんなことでは仕事が長続きしない。エリートである吉村に私が教えてやることが出来るのは手の抜き方くらいのものだったから、いつも彼に息抜の場を提案した。そうしてよく一緒に出掛けるようになったりもしたものだった。
「ちょっと、こっちに用事があって――さっき偶然、駅で彼と逢ってね」
 背後の多田を見遣ると、吉村が私の後ろに隠れた多田を覗き込む。重そうなバインダーを持ち直しながら、吉村は私と多田の顔を交互に見比べた。資料室の入口を塞ぐような格好になってしまっていた私は肩を引き、壁に背を向けて吉村を通そうとした。
「こんなところで何してらしたんです?」
 尋ねながら吉村が足を踏み出しても、多田は私のように体をひこうとはしなかった。
「必要な資料があったら、工場までお送りしましたのに」
 そう言いながらも吉村は私の前を通り過ぎ様顔を見上げ、眸を僅かに細めた。まさか仕事の都合出来たわけではないとも言えない。私が出向先で子守をしていると思われるのも不本意だった。
 多田の体を避けてバインダーを所定の書架に戻し、吉村はあ、と思い出したように呟いた。
「多田、この間ごめん。残業で遅くなって」
 ええよ、と多田が気軽に受け答える。他愛のない友人同士の会話だ。私は彼らの様子を見ながら、知らず安堵の息を吐いていた。
 飲み会の約束でもあったのだろう、吉村は多田に次回の同期会の予定を訊き、多田が後でメールする、と約束した。私は彼らから眼を逸らして、資料室の外の廊下を眺めた。昼食を終え、午後の勤務に戻って行く人の群れが其々各部署へと吸い込まれていく。その表情は楽しげであったり、重々しいものであったり、無表情であったりと様々だ。私はこのビルにいる間、どのような表情をしていただろうか。そして今はどんな表情をしているのだろう。
「ほな、俺先行きますわ」
 多田が徐に声を上げて私の肩を叩いた。驚いて視線を室内に戻す。気さくな多田の様子に吉村も目を瞬かせていた。
「あ、あぁ……すまないね、有難う」
 私が返事をするよりも先に、急ぎ足で資料室を飛び出していってしまう。口調も忙しい男だが、長身の半分ほどが足になっている所為か歩くのも早い。
「いつの間にか仲良しになってらっしゃいますね」
 取り残された形になった私に、吉村が可笑しそうに笑いを堪えながら言う。恐らく多田は誰にでもああいう調子なのだろう。なるほど合コンでもてる情景も目に浮かぶ。
「人懐こい男だね」
 私は肩を竦め、多田の後ろ姿を見送ってから扉を閉めた。再び其処は、薄暗い密室になった。
 多田と私の情事の残り香が残っていないかと気になったが、吉村もそれどころではないようだった。扉を閉めた私に縋り付く様に身を寄せてくる。
「さっき、……電話したんです、携帯電話の方に。電車の中でしたか?」
 いや、と否定し掛けて私は慌てて言葉を濁した。吉村の首筋に手を伸ばす。隠しごとを誤魔化しているようで気が引けたが、私にだって聞きたいことはあるのだ。
「どうかしたか? ――専務と、寝たのか」
 多田の前で見せていたものとは明らかに違う、情欲を秘めた眸を私に向けていた吉村が、私の意地の悪い問いに視線を伏せる。しかし首筋に掛けた手で顎の線を辿ると、吉村は目蓋を下げたまま顔を上げた。
「……まだです、すみません……」
 消え入るような声で呟く吉村の輪郭を人差し指の甲でなぞる。吉村はそれだけで眉間を微かに震わせて私の胸に手をついた。
「無理はするなよ、まるで私がお前を使って悪事を働こうとしているように聞こえる」
 本社に戻りたくないと吉村には言えない。しかし彼が嫌だと思うことを無理にさせてまで戻ろうとは思わない。吉村が好きでしていることなのだ、私はそう思うことに努めた。そんな言い草も、彼を侮辱することになるかも知れないが――その侮辱こそが、彼の求めていることかも知れないからだ。