LEWD(86)

 多田の口から漏れたその言葉が、私が普段パソコンのモニタ上で見ているlewdと頭の中で合致するまでに僅かな時間を要した。
 勿論、その言葉を聞き逃すほど私も馬鹿じゃない。しかし、多田とlewdを結び付けるものはない筈だ。加賀見とlewdとを結びつけること以上に、多田との間は殆どない筈じゃないのか。
 その証拠に、私は多田の口から確かに聞いた筈だ、自分の個人的なメールアドレスが漏れる心配の有無を。――しかしそれは、別に直接lewdのことを訊いたわけではないが――。
「おかしいな、でも梶谷さんやと思ったんだけどな」
 勘違いか、と呟き、多田は床の掃除を続けた。
 彼がlewdの何を見、そして何から私の情報を得たと言うのだろう。問い詰めたいことは山ほどあるが、どれ一つとして私の口を出てこない。ただ驚愕に唇が震えていることだけが感じられた。
「匂い篭りますかね」
 多田はどろりとした体液を纏わり付かせたハンカチを折り畳み、自分のポケットに仕舞った。そんなことをしてはスーツが汚れるかも知れないというのに。
 「ま、ええわ。――お忙しいトコお引止めしてすんませんでした、
 でも俺はイイ思い出来て良かったです」
 多田は屈託のない笑みを浮かべると小さく頭を下げた。裏と表をうまく使い分けるように、彼は男に抱かれることも女を抱くこともあるのだろう。そしてその腹の内は誰にも見せることはないのかも知れない。
 多田は腰に手を当てながら、私の前を素通りして資料室の扉へ向かった。
「――lewdを、……知ってるのか?」
 私は多田の腕を掴むでもなく、低くそう尋ねた。まるで喉から絞り出すかのような声になってしまったが、意識してそうなったのではない。知らず、そうなっていた。胸で打つ鼓動が、頭までダイレクトに響いてくる。殆ど、私の耳には自らの心音しか響いてこなかった。
 多田が知っていると答えたら?
 多田の知り合いなのか? 社内の人間か?
 或いは、多田こそがlewdだとしたら? ――パソコンに詳しい彼ならば、或いは私のメールアドレスを割り出すことくらいできるのかも知れない。
 多田は、lewdに一枚噛んでいるのか?
 彼は――lewdは一体、何のために私にメールを寄越したんだろう。何故、私だったんだ?
「梶谷さん、知らんのですか?」
 声に引きとめられた形になった多田は私を振り返ると、扉に背を預けて怪訝そうに表情を歪めた。
「俺のことは掲示板で見たんでしょ?
 ――なら何で、lewdを知らんのですか?」
 心音が、まるで脳内から発せられているように頭に響く。
 lewdが何処にいるのか、多田は知っているのか?
 lewdは
 本当に、どこかにいるのか?

 私は多田に礼を言うのもそこそこに、会社を走り出た。
 こんな風に走ることは久し振りかも知れない。スーツに合わせて買った安物の革靴は走るのには明らかに向いておらず、足の裏がじんじんと暑くなっていくのが判る。
 天上から降り注ぐ太陽が眩しくて、私は眼を細めながら会社の近所のインターネットカフェを探した。
 私はパソコンでインターネットをすることなんて殆どなくて、だからその種の愛好者による掲示板があることを知ったのだって加賀見のお陰だ。
 斯く言う加賀見も、lewdのことをインターネットで調べたのだろう。
 何故私が真っ先にそれをしなかったのか、今悔やんだところで仕方がないし、悔やむようなことじゃない。加賀見はきっと、そこにいるだろう。