LEWD(92)

 その場にへたり込んでしまいそうになる膝を叩いて、私はビルの前を離れた。
 しかし
 どこに行こうというのだろうか?
 私が連日東京に来たのは、加賀見を工場へ連れ戻すためだ。lewdに逢うためではない。加賀見はlewdの正体を知ったのだろうか――あの日記で?
 いや、知る術はない筈だ。
「……、」
 私はあてもなく踏み出した足を、再び止めた。
 携帯電話を片手に忙しなく街を往来するスーツ姿の男が、私を往来の真ん中に立っているオブジェのように無表情に避けて通っていく。この街に住む人間は皆、他人に対して無感情だ。そこにある者を、自分と同じ動き考え話す動物だとは認識していてもそのパーソナリティには踏み込まない。それは自分が踏み込まれたくない所為でもあり、またそんなことに構っていられる余裕がないからだ。
 些細なきっかけで人と人として繋がるようになって初めて、相手が自分と同じ「人」だとしての実感をもつようになる。それまでは他人など、「人間という動物」という認識の、ただのエキストラに過ぎない。
 ――私が、隣人に対してそう感じていたように。
 私は小さく首を振ると往来の邪魔にならないように足を再度踏み出した。
 加賀見は私のかつての隣人をlewdだと知り得るきっかけはあった、彼のホームページはそれなりに人気というか話題性はあったようだ。
 しかし私の住んでいたマンションを知ることがない以上、加賀見はlewdの居場所を探すことは出来ないのではないか?
 彼の通っている大学はどうだろう。サイト上にそれが判るような記述はなかった。
 たとえ会社に通える距離の範囲内に私のマンションがあったと想定して、そこから通える大学を割り出したとしても数多ある。そこから更に一人の学生など知りようもない。
 加賀見は私の知らない情報を知っているのだろうか?
 人の流れに沿うようにして歩いていくと、私は自然に駅へと向かっていた。
 ここから電車に乗って二駅も過ごせば、lewdの住む――私の住んでいた――マンションまで行くことは出来る。
 たとえばlewdに逢うわけではないにしろ、マンションの前で待っていれば加賀見は姿を見せるかもしれない。
 しかし彼は今日中にはlewdに会いに来ることはないと言っていた。マンションの傍で待てば、加賀見より先にあの青年に会うだろう。顔を知らない仲ではない。会えば挨拶くらいはするかも知れない。
 私は今や――彼をあのlewdだと知っているのに。
 lewdに会いたくないと思っているわけではない。現に、彼だって私のメールを読んで待っていてくれている。何かが私を混乱させていた。
 今まで私が過ごしていたこのぬるま湯を、壊したくないと思っていた。
 
 私は駅の切符売り場の前に立つと携帯電話を取り出し、リダイアルボタンを押した。
 たっぷりと呼び出し音を鳴らしてから、加賀見は電話を取った。