秘密(2)

 一度だけ、こういうことは週末に限ってくれと松岡に頼んだことがある。
 それでなくても営業部で重宝がられている松岡はいつも帰社が遅く、酒の匂いを体中にしみこませたまま久瀬の部屋にいきなり訪れることがある。
 時には、行為に及ぼうとしたはいいもののアルコールのせいで松岡だけが勃起せず、久瀬だけがいたずらに辱められて精を放ったことさえあった。
 松岡の手淫や、あるいは自慰を強いられて昂ぶる久瀬を松岡はひどく蔑んで、気分良さそうに笑った後、久瀬の部屋で眠ってしまう。
 そんな夜でも久瀬が後処理を終えて眠る頃には午前二時を回り、翌日の勤務に差し支える。
 昨晩のように松岡の気が済むまで犯された後では、松岡はその後自分の家に帰るなり、そのまま久瀬のベッドを占領して眠ってしまうなり気楽なものだが、久瀬は体内に残った松岡の体液を洗い流してからでないと眠れないし、何よりも体が重く、だるい。
 しかし、平日の夜は来ないようにしてくれと言った久瀬に松岡は応じなかった。
 無理、とただ一言答えただけだった。
 それきり久瀬は諦めて、松岡にものを頼むことをやめた。
 松岡がしたいと思った時に、久瀬は断る術を持たないのだ。もしそれでもやめてくれと言葉を重ねたら、手ひどく扱われ、惨めな気持ちを思い出すだけだっただろう。

「久瀬さん」
 その場にしゃがみこみたいような気持ちを堪え、経理部の自分のデスクに辿り着くまでの辛抱とエレベーターを待っていると、同じエレベーターを待つ他の社員の背後から、久瀬の名を呼ぶ声が聞こえた。
 身を捻るのも面倒だが、久瀬は反射的にその声を振り返った。
 週も半ば過ぎ、くたびれた表情の中間管理職の禿げ頭が目立つ人ごみの向こうに、頭一つ抜けて、人懐こい笑顔がそこにあった。
 久瀬が黙って目礼を返すと、彼は周囲に何度も頭を下げながら身を捩るようにして人の間をすり抜け、久瀬のもとへ近付いてきた。
 途中、見知った雰囲気の女性社員に挨拶をされてはおはようと応じている。
「おはようございます」
 明らかに彼に話しかけたい素振りの女性の隣も通り抜け、ようやく久瀬の隣まで来ると、演技なのか、彼は疲れたような表情を見せて一つ息を吐いた。
「おはよう」
 人の間をすり抜けてくる途中で乱れたネクタイを直す様子を見上げて、釣られたように久瀬も鼻の上の眼鏡を支えなおす。
 その様子を覗き込むように身を屈めた彼が、小さく首を傾げた。
「久瀬さん、なんか疲れた顔してますね」
 三基あるエレベーターの内の一つが、一階に到着した。しかしすぐにいっぱいになってしまって、扉が閉まる。
 久瀬は次のエレベーターが到着するまで歩を進めながら、そう、と軽く応じた。
「水曜だからね。みんな疲れてるんじゃない。……蔵原くんだって早く週末にならないかなって顔してるよ」
 次のエレベーターはまだ五階で止まっている。会話を打ち切るタイミングを掴めずに、久瀬は辞令的に言葉を続けた。
 蔵原は総務部に自身のデスクを構えているが、一度経理部と合同で設けられた酒の席で隣り合って以来、久瀬に声をかけてくる。
 久瀬だけでなく、蔵原には他部署の知り合いが多いようだ。如才がないというか、人に好かれる徳を持った男だ。
「え、俺疲れた顔してます? 週末が楽しみなのは確かですけど」
 最上階まで昇ったエレベーターが、一階まで下りてくる。
 扉の上の階数表示ランプを見上げながら、久瀬は何やら楽しそうにしている蔵原の顔を窺い見た。
 疲れた様子は見えない。いつも溌剌とした彼は、残業中の遅い時間にばったり出くわすことがあっても朝の様子と大して変わらないように見える。
「あ、ねえ久瀬さん週末予定ありますか?」
 再びエレベーターの扉が開くと、久瀬と蔵原は押し流されるようにその筐体に乗り込んだ。総務と経理のフロアーは同じ四階だ。久瀬が鞄を持ち替えるより早く、蔵原の長い腕がボタンに伸びた。
「飲み会があるんですけど、一緒にどうですか? ほら、久瀬さんとあんまり飲む機会ってないし」
 合同での飲み会でしか、と蔵原は密室になったエレベーターの中で声を潜めると、久瀬の耳元に身を屈めるようにして会話を続けた。
「面子はばらばらなんですよ、企画のやつとかも来るし。あ、ちなみに女の子は女子大生と看護士さんのタマゴと」
 蔵原の言葉を要約すれば、合コンでの面子が足りないということか。
 彼の顔の広さなら、もっと誘うのに適した相手がいるだろうに。久瀬は曖昧に笑って返事を濁した。エレベーターは各階に止まり、遅々として進まない。
「――それとも、久瀬さん年下は駄目ですか?」
 急に蔵原の声が近くなった気がして、久瀬は傍らの顔を振り向いた。
 エレベーターの中は相変わらずの混み具合だ。それでも二階、三階と乗員を減らしていて、人の間に隙間は開くようになっている。
 蔵原の声が近くなったように感じたのは気のせいだったのかもしれない。
 いや、と久瀬が答えようとした瞬間、エレベーターは四階に到着して、慌てて廊下に出る。
「あ、でも久瀬さん週末はデートかな」
 ようやく人ごみから開放された蔵原は、廊下に出ると大きく伸びをしながら久瀬の前に歩み出た。すぐに久瀬を振り返ると、まるで久瀬の反応を窺うように顔を覗きこんでくる。
 人の顔をわざとらしく窺うのは彼の癖なのかもしれない。久瀬は眼鏡の中央を抑えて、苦笑して見せた。
「やっぱり。昨日もデートだったんじゃないですか? だから疲れた顔してるんだ」
 図星でしょう、と人差し指を天井に向かって立て、蔵原は屈託なく笑った。
「そんなんじゃないよ」
 エレベーター前から左右に分かれる廊下まで進む途中、久瀬は辛うじてそれだけ答えると、蔵原に片手を挙げた。
「もし都合があえば、考えておいて下さい。返事はいつでもいいんで」
 蔵原も軽く右手を掲げて応じた。
 恐らく返事をすることはないだろう。その前に蔵原は他のメンバーを探し出すだろうし、もし重ねて誘われることがあっても、久瀬は断るしかない。
 だけど断る口実は見つからない。蔵原が言うようなデートの予定などない。しかし、もし松岡が暇を持て余せば久瀬の部屋には来るかもしれない。
 いっそ蔵原に招かれるまま出かけてしまえば、松岡の来訪を断る口実にはなるのだろう。
 久瀬が大人しく家にいるから、松岡は自分の気分次第で久瀬を抱きに来るのだ。
 松岡を待っているわけではない。ただ、機嫌を損ねることに怯えているだけだ。
 久瀬は総務部のフロアに消えていく蔵原の背中を見送った後で、自分のデスクへ歩を返した。
 疲れた顔をしている、か。
 仕事に疲れを感じたことはないが、何の楽しさも見出せない人生に疲れを感じていた時はあった。
 毎日同じ時間に起床して、毎日決まった電車に乗り、毎日変わらない風景を眺めながらミスをしないように電卓を叩く日々。
 色あせて映る日々の中で、自分という固体も霞んで消えてしまいそうだった。
 目の前を流れていく数字の羅列を眺めていると、まるで自分を見ているように思えた。
 どれも画一化され、数字の大小はあっても、唯一無二のものはない。正確な計算を続ける限り彼らは従順に同じ答えを返すばかりで、当然、意思など持たない。
 支出と収益を繰り返すうちに古い数字は押し流されて、一瞬の記憶にも残らず、だけどどれも毎日見飽きた記号ばかり。
 だから、ある時久瀬は彼らを保護するように自分の口座に移した。
 会社の金を横領したという意識はなかった。
 ただ、数字を書き写しただけだ。目の前の数字を、金だと認識はしていなかった。
 毎日のように残業し、磨耗する自分を投影するように会社の金を削った。少しずつ、自分の銀行口座に書き記していく。
 誰にも気付かれずに社外へと出て行く数字の行列は、久瀬を退屈な毎日から開放してくれるように思えた。
 これは傷だ。
 久瀬がここにいるという痕跡。
 スリルなど感じなかった。誰かに気付かれるかもしれないなんて、思ってもみなかった。
 不思議なほど罪悪感はなく、ただ桁を増やしていく久瀬名義の銀行口座を眺めていくだけで安堵していた。
 横領した金を使う予定もない。夜遅くまで自分のデスクに居残って、顔も覚えていないような社員の名前で経費を切る。日によっては十万近くの金を動かした後で、真っ直ぐ帰宅した。
 金を使うような趣味もない。
 ただ、自分だけが知る数字遊びのようなものだった。

「――あれ、まだいたんだ」
 そんな日々が続いて一年も経過したある時、経理部のデスクに一人残った久瀬に声をかけてきた男がいた。
 フロア中のほとんどの灯りを消し、久瀬の頭上の蛍光灯だけをつけた薄暗いオフィスを覗き込んだのは、松岡だった。
「久瀬じゃん」
 くたびれたスーツの上着を腕にかけ、首のネクタイを緩めた格好で、松岡は歩み入って来た。
 松岡は久瀬の同期だった。
 とはいえ、数十人も採用されたうちの一人に過ぎず、同期会にでも顔を出さない限り、親しく話す機会もない。松岡が久瀬の名前を覚えていたのは意外だった。
 松岡はその派手な顔立ちと長身のせいで、女子社員に騒がれているから久瀬は何となく知っているし、営業部といえば会社の花形だ。ただでさえも目立つ容姿に加えて、成績も上位を維持していれば、おのずと注目を集める。
「遅くまで残業? お疲れ」
 大きな口を笑ませて、気さくな様子で歩み寄ってくる松岡の姿を、久瀬は胡乱げに見上げた。
「そちらこそ。接待帰り?」
 返事をしながら、久瀬は目の前のモニターに視線を落とした。虚偽の伝票を作成していた画面を落とし、オンラインネットバンクからログアウトする。
 あくまでも仕事の一環を続けていたように、手馴れた仕種でマウスを滑らせた。
「ああ、ちょっとね。今日なんかは早い方だよ。――久瀬は? 何してんの」
 不意に手元を覗き込まれて、久瀬は肩を震わせた。
 素知らぬ振りを決め込んだはずだった。
 しかし、思いのほか歩幅の広い松岡は、久瀬の想像より早く久瀬の近くに寄ってきていた。
 それを不気味だと感じたのは、久瀬にもまだ後ろめたいという気持ちがあったせいだ。
「経理のパソコンなんて覗き込むものじゃない」
 過度にならないように心がけながら、久瀬は苦笑を浮かべて松岡をいなした。経理の抱えているデータは社外の人間よりも、社内の人間にこそあまり見せたくないものだ。
 もっとも、久瀬が今開いていたデータは同じ経理の人間にだって見せられるものではなかったが。
「確かに」
 松岡は声を漏らして笑いながら、しかし久瀬の背後のデスクに寄りかかって腕を組んだ。
 まるで監視でもされているようだった。しかしそれも、久瀬がそうと感じるだけのことだ。
「松岡、――はいつもこんな時間まで残業してるの。大変だね。プライベートなんてないんじゃない」
 久瀬は松岡に背を向けたまま、仕方なく別のファイルを立ち上げた。
 昼間に処理を終えているデータの確認作業を、仕方なく始める。何も今やる必要はないが、そんなことは松岡には判るまい。
「ないよ、女と遊ぶ暇もないし、酒も旨いもんばっかりじゃないしね」
 大袈裟に身体を左右に揺らしながら、松岡は酔っ払いの口調で愚痴を吐いた。
「大変だね。俺にはとうてい務まらないな」
 久瀬も話を合わせて、笑って見せる。
 体裁を整えたファイルに印刷を指示すると、椅子を離れ、プリンターまで取りに向かった。
 忙しくして見せることで松岡が帰れば、このまま続きを進めてもいいし、帰りそうになかったら、なにも今日中に金を移動させなければいけないということもない。
 こんなアクシデントもたまにはいいものだ。
 所詮数字の移動なんて、久瀬の暇つぶしに他ならない。
 他の社員が仕事帰りに酒を嗜むように、久瀬は束の間の悪事を愉しんでいるのだ。
「俺は反対に、一日中こんな数字とにらめっこしてる方が無理だな」
 席を立った久瀬のパソコンに、松岡が腕を伸ばした。
 プリントサーバまで向かった久瀬が振り向くと、松岡の手は既にマウスを握っている。
「ッ!」
 見るな、と怒鳴りそうになるのをぐっと堪えて、久瀬はプリントアウトした用紙を引っ手繰った。
 松岡には見ても判るまい。そう祈るように自分に言い聞かせても、指先から汗が冷えてくるのを感じた。
「――ん、」
 駆け寄ってしまわないように留意しながら、デスクまで引き返す。松岡の長い指先が、マウスを叩いた。
「何、これ?」
 久瀬が戻る頃には、モニター上にネットバンクのログアウト画面が表示されていた。
「何って、――ネットバンキングのソフトだよ。知らない?」
 平静を装った久瀬は、松岡の顔を見ることができずに、震える指先で眼鏡の位置を直した。
 邪魔をするなとばかり、松岡の手をマウスから退けるように促す。
 しかし、松岡は手を離そうとしなかった。
「これ、久瀬の個人的な口座じゃないの」
 ログアウト画面には久瀬の名前はない。しかし、主要取引銀行の法人向けサービスではないことは判る。
 思わず久瀬は、言葉を呑んだ。
 違う、と答えてもおかしい。会社で個人的な口座を操作する正当な言い訳も思いつかない。後にして思えばいくらでも嘘や出任せは考えられたかもしれない。その時の久瀬には、判らなかった。
 こんな風に露見することを想定もしていなかった。
「なあ、まさか――……会社の金を掠め取ってるとか、ないよな?」
 足元がぐらついたように、感じた。
 松岡の低い声は、まだ笑っているように聞こえた。松岡が冗談で言っているのであれば、まさか、と笑い返すのが一番だ。
 しかし、背骨が氷柱のように冷え切った久瀬には頬の筋肉が引き攣るばかりで、笑うどころか呼吸すらもままならない。
 松岡の砕けた様子が、ゆっくりと緊張に変わるのを空気で感じた。
 松岡の表情を窺うことも出来ない。眼鏡の奥の久瀬の視界は白くぼやけたようで、いくら瞬きをしようとしても、睫の先が震えるばかりだ。
「――久瀬」
 松岡の声が低くなった。
 反射的に、久瀬の肩が震える。無意識だった。意識していれば、この場を取り繕おうと思えば、震えてはいけなかった。
「……本気かよ」
 ようやくマウスから松岡の手が離れた。
 焦点の合わない視界の中で久瀬はそれだけを認識することができたが、だからと言って今更、どうすることもできない。
 パソコンに飛びついて電源を落としたところで、松岡の記憶から掻き消すことは出来ない。
「別、に……」
 喉がからからに渇いていた。ようやく絞り出した久瀬の声は掠れて、みっともなく震えている。
 印字したばかりの書類を握り締める手の震えは、もう隠しようがないほどになっていた。
「別に、何に使ってることなんてなくて、――全額、残してある」
 床の上に視線を彷徨わせる。ぐらぐらと揺れる頭を抑えるようにして、久瀬は前髪をかき上げた。唇が戦慄いて言葉がうまく紡げない。
「ただ、金を移動させてみただけで、……一銭も使ってない、本当だ」
 今まで放流していた分を、また今までのように少しずつ戻していけば、それで済むだけのことだ。
 誰にも気付かれなければ、金が出て行った事実だってなかったことになる。
 自分の口座に移すことも、それをまた元に戻すことも、久瀬にとっては同じことだ。いつかそうしようと思っていた。だから金を使おうと思ったこともなかった。
「使わなきゃいいってもんじゃないだろ」
 松岡の押し殺したような声にか細い言い訳を遮られて、久瀬は弾かれたように顔を上げた。
「横領したのは事実なんだろ? 必要ない残業代稼いでたのだって、タチ悪いぜ」
 久瀬は、緩く首を振った。
 松岡の長身が、まるで自分を追い詰める断罪人の影のように感じる。
「金を使ったかどうかってことが問題なんじゃねえよ。――お前、クビになるだけの話じゃないからな」
 総額を考えれば、会社が久瀬を法的に訴え出る事だって妥当な、犯罪だ。
 そんなつもりじゃなかったと言っても、それは久瀬の理屈だ。
 久瀬にとってはただの数字の羅列でも、事実として、それは会社の金だ。松岡や他の社員が必死になって得た会社の利益を、久瀬は掠め取っていたのだ。
「――も、ど……戻す、から」
 久瀬は、傍らの机に手をついた。握り締めていたはずの書類が音をたてて床に落ちる。
 足元が覚束ない。
 気を緩めたら膝が崩れてその場に倒れこんでしまいそうだった。
「横領した金を? 戻すったって、一気に戻したらまたバレるだろ。何ヶ月かけて元に戻す気だ? 年単位か?」
 一年半、そう答えようとして、久瀬はついに唇が強張って動かなくなった。
 目に見えて膝が震えている。それを抑えようとして手を伸ばすと、バランスを崩した。
 床に崩れ落ちるかと思った瞬間、松岡の腕が久瀬の肩を掴んだ。
「久瀬。――お前が金を全部元に戻すまで、俺が口を割ったら、その瞬間からお前は犯罪者だな」
 ぎり、と肩の骨が軋むかと思うほど強く、松岡の指が久瀬の肩に食い込んだ。
 不思議と、それは感覚を失った久瀬を引き止めてくれているように感じる。
 久瀬が顔を仰ぐと、松岡は双眸を細めて笑っていた。
 陽気な笑みじゃない。暗い、威圧的な笑みだった。
「バラして欲しくないだろ?」
 松岡の唇が、久瀬の眼鏡に反射する。
「黙っててやってもいい」
 それはまるで甘い誘惑のようだった。
 松岡に支えられた久瀬の身体にはほとんど力が入らず、弛緩したようになって冷え切っている。
「お前が、俺の言うことさえ聞いてりゃな」
 松岡が、久瀬の身体を揺すった。
 久瀬はまるで操り人形のように肯いていた。