秘密(3)
正午を告げる音楽がフロアーに流れて、久瀬は重い腰を上げた。
社内は天井からの照明と、窓から差し込む太陽の光に煌々と照らされて明るく、暖かな空気を醸し出している。
久瀬が松岡に脅されて――あるいは共犯者となった松岡に、口止め料として行為を強いられるようになってからもう暫く経つ。
朝日が上ればやはり、久瀬にとっては退屈な毎日の連続だ。
しっかりとプレスを掛けたスーツをまとい、髪を整えて眼鏡をかければ、昨日も一昨日も、おそらく明後日も半年後も大して変わらず、誰の記憶にも残らない久瀬でしかない。
フロアで漫然と働く同僚も上司も、こんな久瀬がまさか週に一度や二度、男に身体を開いているなどとは思ってもいないだろう。
それは、彼らが久瀬を従順な経理マンだとしか認識せず、横領をしていたなどと想像だにしていなかったのと同じだ。
あの日以来、久瀬は松岡のことを別の暇潰しなのだと考えるように努めていた。
そうでもしないとやってられない。
久瀬は隣の席の女性社員に声を掛けると一階下の食堂へと足を向けた。
朝よりは辛くないが、それでも本調子とは言えない。
今朝、蔵原に疲れていると指摘された顔を手の甲で擦りながら、久瀬は階段を下りた。
寝不足というだけならもう慣れてもいい頃だ。松岡が訪ねてこない日だって眠れない夜はある。日付が変わる頃に穏やかな就寝時間を迎える日々なんて、もう遠い昔のようだ。
「今からお昼ですか?」
背後から足音が聞こえて久瀬が振り返った矢先、蔵原の明るい声が響いてきた。
手には携帯電話を握り締めて、足取りも軽い。リズムでも刻むかのように階段を駆け下り、久瀬の隣まで辿り着くと蔵原は足を止めた。
「蔵原くんも食堂?」
久瀬の歩みに合わせて傍らを歩く蔵原が、はい、と肯く。
彼には久瀬のような後ろ暗い暇潰しは必要ないのだろう。それこそ、友人たちと女性を集めて酒を愉しみ、日々の仕事の糧にしているように見える。
「蔵原くんは、趣味とかあるんだっけ」
「趣味ですか?」
給料日前の食堂は多くの社員で溢れ返っていた。
トレイを取り、席を探す前に定食のメニューを確認しながら久瀬が尋ねると、蔵原は目を瞬かせた。
会話の糸口を探そうとしたのではない。不意に、久瀬の口をついて出てきた。
蔵原と会話をしていると、少し気が紛れるような気がした。
「うーん、……最近は、たまに釣りとか行きますけど。外商部の前田って知ってます? この間あいつに誘われてバス釣り行ったんですよ、そしたらはまっちゃって」
身振り手振りを加えて話す蔵原の姿を横目に眺めながら、久瀬はカウンターの食事を取った。後から、慌てて蔵原も定食を注文する。
「久瀬さんも今度行きません? 景色とかめちゃくちゃ良いし、魚はその場でリリースしちゃうんですけど、近くの店で魚つつきながら酒呑むのとか堪んないですよ」
この間はどこの川に行ったのだとか、湖はどうだとか、蔵原の話題は尽きない。
蔵原が魚の代わりに藻がたくさん詰まった空き缶を釣り上げた話などを聞いていると、まるでその光景――と、蔵原の落胆する様子が目に浮かぶようで、久瀬は知らず笑い声を漏らしていた。
「久瀬」
食事を乗せたトレイを手にして、空いた席を探そうと久瀬と蔵原が立ち尽くしていると、向かいから声を掛けられた。
反射的に視線を流す。
そこには、昨晩見たばかりの顔があった。
「なんだ、飯なら外で食えば良いのに」
松岡だった。
上着の前のボタンを外し、くたびれた様子で久瀬に歩み寄ってくるなり、久瀬の手元を覗き込んでくる。
「俺も今から飯食いに行くんだけど、……それ、返せば?」
確かに営業周りで外に出ることの多い松岡にしてみれば、昼食を外でとることも多いかもしれない。
しかし、内勤者で――しかも松岡のせいで重い身体に鞭を打っている久瀬にしてみたら、社内で手短に済ませたい。
断ったら松岡の機嫌を損ねるだろうか。
「あれ、松岡先輩って久瀬さんと同期でしたっけ」
思わず言葉をなくした久瀬の代わりに、傍らの蔵原が声をあげた。
「ああ、……お前こそなんで久瀬と一緒にいるんだ? お前総務だろ」
久瀬が蔵原の顔を仰ぐと、蔵原は破顔した。彼はいつも笑っているようなものだが。
「俺ね、松岡先輩の大学の後輩なんですよ。学部もサークルも違うけど」
へぇ、と思わず久瀬は口に出していた。
そんなことは初耳だ。
松岡は自分の話など特にしようともしないから、松岡の友人関係だってほとんど知らない。
もっとも、久瀬だって松岡に蔵原の話をしたことはないが。
「ほら、松岡先輩って目立つじゃないですか」
顔が、と蔵原は松岡の顔を指しては身を屈め、久瀬に声を潜めた。松岡にも筒抜けの声だ。その戯れた様子に久瀬も思わず肩を揺らして、ああ、確かに、と肯いてしまう。
「お前に言われたくねえんだよ」
松岡が腕を伸ばして、久瀬の頭を押し退ける。大袈裟にバランスを崩して仰け反った蔵原はトレイの上の小皿を取りこぼしそうになって慌てて押さえた。
「大体お前、初対面の人間に女紹介しろとか言って声かけてくるか普通。意味わからねえよ。誰だよお前って話だろ」
「え、だって松岡先輩合コン荒らしだって噂でしたもん」
蔵原は近くのテーブルにトレイを預けると、声をあげて笑った。松岡の声がそれに重なる。
「荒らしとかいつの時代の言葉だよ」
返した松岡の声も、笑っている。
久瀬に向けられるような含みのある笑顔じゃない。もっと砕けた、明るい調子だ。
蔵原につられているのかもしれない。蔵原の調子に引き込まれると、久瀬だって思わず笑みが零れてしまう。蔵原はそういう人間だ。
「あれ、松岡先輩の時代背景に合わせたつもりなんですけど」
違ったかな、ととぼけた蔵原に、また松岡が腕を伸ばしてその頭を小突く。
ちょっと、暴力反対、と喚く蔵原の姿を、通りかかった総務の人間も笑って眺めている。
「人聞きの悪いこと言うな、お前テキーラの恩を忘れたとは言わせないからな」
松岡が胸を逸らして偉そうに腕を組んで見せると、一瞬の間の後で蔵原が大きく声をあげ、ああ、と噴き出した。思い出話を切り出した松岡の方も顔をくしゃくしゃにして笑い、組んでいた腕を腹に回して身を捩っている。
そんな表情を、久瀬は見たことがない。
松岡の中にある久瀬の思い出話といえば、暗い部屋の中で、ベッドに沈んだ姿くらいのものだろう。久瀬の中でもそれは同じだ。
松岡にとって久瀬は、そうでしかない。
こんな風に笑って話せる思い出もないし、気軽に小突くような間柄でもない。
同期だからって、友情はない。あるのは、絶対的な従属関係だけだ。
久瀬は曖昧に笑ってその場に馴染もうとしたが、うまくいかなかった。
一歩足を引き、踵を返す。蔵原が久瀬の様子に気付いて顔を上げたが、蔵原が気を使って口を開く前に、久瀬はごめん、と謝った。
「午前中に送信しないといけないデータ思い出した、ちょっと戻るよ。ごめんね」
まだトレイの上で湯気を上げている食事をカウンターにつき返すと、久瀬は松岡を振り返らずに食堂を去った。
とにかくこの場から、逃げ出したかった。
何故だかは判らない。
松岡のあんな表情を見ていたくなかった。
午後は最悪だった。
空腹を紛らわすためにコーヒーを浴びるように飲んで、目の前の仕事に集中しようとした。
気を緩めれば腹の虫が鳴ってしまいそうで、空腹を意識すると食堂の景色を思い出してしまう。
松岡のあんなに楽しそうな姿を初めて見た。
年相応に相好を崩して、酒や女や、同級生の話をしたりもするのだ。
久瀬があんなことでもしなければ、同等に肩を並べて同期として、笑いあうことができたのだろうか。
少なくとも松岡は久瀬の名前を覚えていてくれて、あの晩、声をかけてきてくれたのだから。気さくな様子で。
久瀬が横領などしていなければ、松岡とあのまま親しく話す関係を築けたのかもしれない。
松岡との関係をこんな風にしたのは、久瀬自身だ。
だけど、あんな数字遊びでもしていなければ、遅くまで会社に残っていることもなかった。久瀬が残業していなかったら、松岡と話す機会だってなかったはずだ。実際、あの日まで久瀬は松岡と話したこともなかった。
だけど、その方が良かったのかも知れない。
松岡のことなどよく知らなければ、あんな風に楽しげに笑う松岡の姿を見ても何とも思わなかった。
「久瀬くん、さっきの伝票だけど……」
上司に声を掛けられて、久瀬はパソコンから顔を上げると、鼻の上の眼鏡を中指の背で押し上げて応じた。
特に位置を下げていなくても、これはもう癖のようになっている。眼鏡のレンズが視界から外れていたところで、困るような視力ではないのに。
* * *
「――なんだ、これ。伊達なのか」
初めて久瀬の部屋で久瀬を抱いた夜、松岡はベッドサイドの眼鏡を取り上げると天井に透かして見ながら眉を潜めた。
まだ慣れない行為に軋む身体を奮い立たせてシャワーを浴びてきた久瀬が部屋に戻ると、松岡はまだベッドの上にいた。
服も着けず、まるで自分の部屋のように寛いでいた。
「勝手に触るなよ」
松岡の手から眼鏡を奪い取った久瀬は、ベッドの上を占領している松岡の身体を見ないように視線を外して、首に掛けたタオルで髪を拭った。
ベッドの下の床に腰を下ろすと、そのまま突っ伏したい気持ちを押し隠す。
どんなにタオルで擦っても、体中に松岡の感触が残っている。
最初は、会社で。それから何度かホテルに誘った後、松岡は久瀬の部屋にやって来た。
何もない部屋だなと笑いながら、その晩、松岡は久瀬をひどく執拗に愛撫した。久瀬は松岡の手で、口で何度も射精させられた後に松岡に貫かれ、それから二度も松岡の精を浴びせられた。
自分が、男の精液を注がれながら身も世もなくすすり泣いて乱れるような人間なのだとは思わなかった。
実際、久瀬はもう自分が吐き出すような精が残っていないのに、松岡のものを穿たれながら全身を痙攣させて――やはりあれは、イった、ということになるのだろう。
「何でそんな眼鏡かけてるんだ」
狭いワンルームの中央に、申し訳程度に設けたテーブルについた久瀬の背中から、松岡の腕が伸びてきた。
思わず身構えた久瀬の首の横を通り抜けて、松岡が眼鏡を取る。
「別に。――……もう用は済んだだろ、帰れよ」
久瀬は眼鏡の弦に手を掛けて引き止めると、横目で松岡を振り返った。ベッドから半身を乗り出して、久瀬の顔を窺っている。その表情は、笑っていた。
「用が済んだか済んでないかは、俺が決めることだろ?」
同じ眼鏡を摘んだ松岡の低い声が、久瀬の耳元で響く。背筋がぞっと竦むような声だ。
久瀬は思わず眼鏡を離して、顔を背けた。
「お前に選択権なんかない」
背後でベッドの軋む音がした。松岡が体勢を直したのだろう。
毎晩身体を横たえているベッドがこんなに激しく軋むものだとは、知らなかった。今夜から、このベッドで何も思わずに眠れる日が来るのかどうか判らない。寝返りを打つたびに、今までは何とも思わなかったスプリングの音を意識して、松岡を思い出すかもしれない。
「眼鏡なんかかけてない方が、女にもてそうな顔してるのにな」
久瀬はテーブルに視線を伏せて、押し黙った。
眼鏡をかけるようになったのは、高校生の時だ。
当時、久瀬には交際していたクラスメイトがいた。彼女は久瀬を好きだと言ってくれていたし、久瀬も彼女を可愛いと思っていた。
優しくて笑顔の可愛い女の子だったし、一緒にいて退屈だと思ったこともなかった。慎ましく、幸せな毎日を過ごしていた、と思う。
しかしある日の放課後、彼女の買い物に付き合ってすっかり日も暮れ、久瀬が彼女の家まで送り届けた時に、それは起こった。
言葉数の少なくなっていた彼女は、久瀬がじゃあまた明日、と切り出した瞬間に久瀬の手を握り、目を閉じて顔を仰向かせた。
久瀬が口を挟む隙もなかった。
彼女は久瀬に身を寄せて、唇を押し付けると見る間に顔を赤らめて家の中に逃げ込んでしまった。
他愛のない、高校生のキスだった。
高校生にしては遅すぎたかもしれない。
しかし、久瀬にとっては驚きでしかなかった。
唇に残った彼女の感触を、何とも思えない自分に気付いて、久瀬は暫くその場に立ち尽くしていた。
彼女に別れを切り出したのは、その十日後のことだった。
彼女に非はない。非があるのは久瀬の方で、彼女は久瀬にもっと密接な関係を望んでいたのかもしれない。久瀬を好きだと言っていた彼女には当然のことだ。
しかし、久瀬には当然のことじゃなかった。
彼女が好きなわけではなかった自分に気付いてしまった。
彼女と一緒にいたのは、彼女のことが好きで一緒にいたいからだと思っていたからじゃない。
ただ、クラスメイトに恋人ができていく中で放課後の時間を持て余していたからに過ぎなかった。
彼女は可愛くて、優しい、素敵な女の子だった。
しかし、久瀬は好きになれなかった。
もしかしたら自分は誰のことも好きになれない人間なのかもしれない。そう思った時、久瀬はプラスチックの嵌め込まれた眼鏡を買った。
ただ、他人と距離を置きたかった。
彼女の唇に触れられた瞬間に感じた、あの自分と他人とを隔てる感触を眼鏡に投影していたのかもしれない。
自分の身体には薄い膜がはっている。そう感じた。
消して他人と交じり合うことができない、防御壁のようなものだ。
「――久瀬って下の名前、何だっけ」
押し黙った久瀬の背中に、松岡は構わず言葉を投げつけてくる。鼻歌でも歌いだしそうな、上機嫌な声だった。
「……邑」
今となっては面影も思い出せない女性の影を振り払うように、久瀬は小さく首を振った。髪から雫が落ち、久瀬の肩を濡らす。
その肌に、松岡の手が触れた。
「へぇ、」
松岡がまた身を乗り出してくるのが判る。それを振り払うことも、久瀬には許されていない。
松岡がどんなに久瀬の身体に触れたって、やはり、どうせ膜の上からのことだ。
久瀬はテーブルに俯かせた顔で目蓋を瞑ってそう思うように努めた。
「邑」
松岡の低い声が、耳朶のすぐ近くで響く。同時に柔らかな感触が耳を覆ったかと思うと、濡れた舌が耳孔に潜り込んできた。
「っ……!」
ぎくり、と身が強張ってしまう。
松岡の腕は久瀬の肩を滑り、胸へと降りてきて中央の筋を撫でながら硬い胸の上を弄った。
「邑、こっちに来いよ。お前のベッドだろ? 俺ばっかり寝てちゃ悪い」
耳の淵まで舐った松岡の舌先が、裏側に回り、耳の外郭をなぞって首筋に向かう。
松岡の息遣いが妖しくなっていくのを、間近に感じた。
「べ、……別に――……」
いい、と固辞しようとする久瀬の言葉を待たず、松岡は乱暴に久瀬の腕を掴むとベッドに引き摺りあげた。
ベッドの端にしたたか背を打ち、不恰好に乗り上げた久瀬の身体を跨いで、松岡が見下ろしている。
天井を遮るように覆いかぶさった松岡の身体はまだ汚れたままだった。久瀬が吹き上げた精を腹の上に受けたのだろう、掌でおざなりに拭った跡がある。
「お前って、別に、ってよく言うよな」
それ、禁止な、と付け足して、松岡は屈託ない笑みを浮かべた。
言葉尻まで制限されるのか。久瀬は諦めたようにベッドの上で身体を弛緩させると、視線を逸らした。
第一、禁止されたからといってうっかり使用してしまっても、それでペナルティが課されるような性質のものじゃない。
ただ、久瀬の口座が綺麗な状態になるまで松岡の言うことに従って、機嫌をとっていればいいだけのことだ。
「それから、俺の前では眼鏡をかけるのは禁止」
ベッドの上に放り出された眼鏡を拾い上げては久瀬にちらつかせて見せ、松岡が言った。
おそらく松岡は、久瀬に命令をすることを愉しんでいるのだ。
久瀬が逆らえないことを面白がって、どうでもいいようなことまで厳しく言いつけたいのに違いない。
「――何だよ、それ……」
久瀬は松岡の手の中の眼鏡に、腕を伸ばした。松岡はそれをひょいと避けて眼鏡を頭上高く掲げると、久瀬を嘲笑うように肩を震わせる。
松岡の身体の震動がベッドの震動となって、久瀬の全身を揺らした。
「何って、命令だよ。お前は俺に、逆らえない」
そう言った松岡の影が、久瀬の視界に落ちてくる。久瀬は反射的に目蓋を落とした。
松岡の手から眼鏡の落ちる音が、どこか遠くに聞こえる。
久瀬にとって眼鏡が何なのかも知らないくせに。
松岡は久瀬の噛んだ下唇を舌先でこじ開けると、強引に潜り込んできた。さっきまで何度も交換してきた唾液はもはや松岡の味もせず、久瀬のものと同化している。
松岡はしきりに久瀬に身体を摺り寄せてきた。
まるで、久瀬の身体から見えない衣服を剥ぎ取ろうとするかのように。