登校日(2)

 汗だくになった清臣と達哉が教室に飛び込むと、既に教壇には担任の三芳が立っていた。点々と空席の目立つ教室内にはプリントが配られ、それぞれが視線を落としている。相変わらず無駄口の多いホームルームだったが、うっかり前の扉を開けてしまった二人は一斉に注目を浴びた。
「すいませー……ん……遅刻しましたー……」
 達哉が気の抜けた笑い声を漏らしながら三芳に頭を下げると、神経質そうな眼鏡を掛けた奥で三芳が目を細めた。
「たとえ夏休み中でも、遅刻は遅刻だ。時間通りに動くことが出来ないとスポーツマンとは言えないぞ」
 陸上部ではそれなりに可愛がられている達哉に対して、三芳の静かなお叱りの声が飛ぶ。声を決して荒げることのないこの担任は、体育会系の多いこの学校で恐れられていた。頭ごなしに怒鳴りつけることもなく、時に何を考えているのか判らないことが多いからだった。
「すいません……」
 頭を掻く達哉の後ろから、清臣が顔を覗かせる。三芳は大きく溜息を吐いた。
「大方遠藤が寝坊したんだろう、廣瀬も遠藤にいつまでもくっ付いてないで、一人で行動できるようになりなさい」
 三芳はそう言って、残ったプリントを丸め、手の中で叩いた。三芳の読みは完璧だ。達哉が感心しようと思う暇なく、教室内からも同様の声が浴びせられた。清臣が何か、清臣らしくない失敗をする場合その原因は達哉にある。反対に達哉が何か達哉らしからぬ成功を収めた時――テストで好成績を残すとか――は、清臣のおかげということになった。それを何故か、達哉はコンプレックスに思うことはなかった。
 中には清臣に纏わりつかれている達哉を同情する者もいたが、そんなのは達哉にとっては迷惑以外の何物でもない。達哉は清臣が周りから評価されていることを誇らしいと思っていたし、自分の失敗に清臣を巻き込んでしまったら悪いのは当然自分だ。そうならないように次回から気をつけようと思えば、結果的に自分のためにもなる。
 それに何よりも、周りが何と言おうと清臣自身が達哉を励ましたり、時には責めたりする。そのことが達哉にとっては重要で、周囲の声は気にするようなものじゃなかった。いくら達哉が失敗ばかりしても、清臣は達哉を必要としている。それが達哉を救ってくれているのかも知れない。
「……じゃあ続けるぞ」
 頭を下げた清臣を一瞥すると、三芳はプリントを手に教団に向かい直り、話を始めた。黒板には夏休み中の模範行動と書かれている。それなら終業式に体育館で生活指導主任の長い話を聞いたばかりだ。達哉は背中を丸めて精一杯小さくなると、三芳が語る教壇の前を通り過ぎて席につこうとした。
「夏休み中、羽目を外して高校生らしからぬ行動に出ることは当然、慎まなければならない。何故なら――……おい、遠藤、廣瀬。誰が席について良いと言った」
 達哉に倣って背中を丸めた清臣が教壇の前を通り過ぎようとした時、三芳がプリントで教壇を叩いた。ビクッと大袈裟に達哉が肩を震わせる。
「お前らは廊下に立ってろ立ってろ」 
 クラスメイトの野次が飛んだ。今時廊下に立たせるなんてことはないだろう、と達哉はその声に歯を剥いて応える。清臣は、反省しきりの表情で三芳を仰いでいた。
「廣瀬、ちょっとここに来なさい」
 三芳が、いつも変化のないむっつりとした表情で清臣を手招いた。教壇の横に立たせ、気をつけの姿勢をさせる。席につくことも許されず、清臣のように指示されたのでもない達哉はその場で待機した。一番前の席を割り当てられた同じ部活の坂本の机に手をついて、体重を預ける。三芳の隣に立たされた清臣は、不安そうな表情で俯いていた。
「良いか、お前ら。夏休み中は繁華街に出て遊ぶ機会も多いだろう。気温は高いし、女性の露出度も上がる。だからと言って不純異性交遊なんかがあってはいけない。――生活指導主任はそこまで言わなかったかも知れないが、要するにそういうことだ。判ってるんだろうな」
 三芳は清臣を立たせたまま、教壇の上にプリントを放って言い切った。フジュンイセイコウユウって何ですかー、という生徒達の揶揄の声が上がる。男子校という男だらけの環境に閉じこめられた、高校生という若い性が夏休み中に初体験――ではない者も中にはいるだろうが――を済ませてしまうことは容易に考えられる。むしろ夏休みの内に済ませておくべきだと考える方が妥当だが、学校側としてはそんなこと言えやしないのだろう。
 達哉は大人の設けた勝手なマニュアルを読ませられている気分になりながら、三芳の次の言葉を待った。達哉は夏休み中殆ど部活で、三芳の言う「繁華街」に行く機会なんて殆どないし、帰ってきても清臣とゲームをしたり花火をするだけだ。自分には縁のない話に思えた。
「何故、そういった不純な行為をしてはいけないかというと、お前らがまだ子供だからという理由が第一だが、子供だと何故そういった行為をしてはいけないか。判るか、遠藤」
 三芳が受け持つ世界史の授業の問答のようだ。達哉は急に指名されて、慌てて背を伸ばした。
 何故かと言われれば、子供だからじゃないのだろうか。いつも大人は、子供はそういうことをしてはいけないと頭ごなしに押さえ込むばかりで、その理由は聞いたことがない。達哉は首を捻った。
「アダルトビデオや、成人向け雑誌を大人に隠れてみている程度の中途半端な知識で、生殖行為を行う。そのことによって相手の躰を傷つけたり、または望まれない子供を宿してしまったり、果ては性病を患ってしまったりする。だから、子供には禁止されているんだ」
 クラスメイトはいつも通りの硬い口調で淡々とセックスについて語る三芳の言葉をにやにやしながら聞いていた。やべー勃ってきた、と冗談で股間をおさえる奴もいた。
「禁止されたところで、高校生にもなればいくらでも女性と接する機会はあるだろう。男子校に通っているお前らにとって、夏休みという期間は絶好の機会だ。だからこそ俺は、お前たちに正しい知識を持って欲しいと思っている」
 三芳は涼しい顔でそう言うと、きっちり着込んだサマースーツのポケットからコンドームを取り出した。教室内が下卑た笑いで盛り上がった。俯いていただけの清臣も顔を上げ、直ぐに目を逸らす。
 そういえば清臣が告白されているのはよく知っているが、清臣が女の子に惚れたという話は達哉でさえ聞いたことがなかった。もはや家族のようになってしまった近しい友達だからこそ、言い難いのかも知れないと思っていたが、コンドームさえ直視できないところを見ると勉強は出来ても、清臣はまだ精神的に子供なのかも知れないと思った。
「これは何だ、廣瀬」
 教壇の天板を見詰める清臣に向かって三芳がコンドームを見せ付ける。清臣は、困惑したように三芳の顔を仰いだ。
「あ、……えーと、……コンドームです」
 声を絞り出すようにして答えた清臣の声に、教室中が笑った。お前買ったことねぇのかよ、と突付き合う者たちもいた。
「そうだ。コンドームはお前らも知っている通り、セックスの際、男性器に装着するもので、妊娠の危険性をある程度回避すると共に、性病を防ぐ役割もある。この中にコンドームを付けたことのある者はいるか」
 三芳がコンドームを掲げながら、教室内を見渡す。クラス中に照れ隠しのような、にやついた空気が充満した。登校している内の三分の一ほどの生徒が右手を上げる。
「マジかよ! 誰と誰と?」
「ばっか、ゴム付きオナニーだよ」
 それぞれが必要以上に大きな声を上げて盛り上がる中で、清臣がちらりと達哉を盗み見た。当然のように手を上げていない達哉を見ると、照れ臭そうに笑う。達哉もまた、首を竦めて笑い返した。
「その内、セックスをしたことがある奴はいるか。――説教はしない、正直に言ってみろ」
 挙手された腕が更に減った。彼女がいると公言している奴も、合コンの神と言われているイケメンも、誇らしげに腕を上げたままだった。コンドームをつけたことがある内には手を上げていなかったくせに、セックスはしたことがあると腕を上げる奴もいて、背後の席から頭を叩かれていた。
「腹出しだよ腹出し」
 叩かれた頭を抑えながら答える奴に、やっぱ顔射だろと知ったような口を叩く奴もいる。達哉はクラスや部活の友人とAVの貸し借りやこういう話をしたことがあるが、清臣とはしたことがない。してはいけない雰囲気があった。
「宮川のような、間違った方法で避妊だけはしている、と言い切る輩がいるから、俺は口を酸っぱくして言っているんだ。判るか」
 最強はフェラじゃね? と調子に乗った話を続ける生徒を名指しで呼びかけ、三芳は教壇の前へ歩み出た。宮川がおどけて笑う。
 三芳は傍らに立った清臣の肩に触れ、自分の前に促すと気をつけの体勢を崩さない清臣の胸に手を伸ばし、汗で濡れたワイシャツの下の肌を指した。
「廣瀬は男だが、まぁ廣瀬を例にとって説明しよう。良いか、ここが胸だ」
 三芳がまるで、社会地図の一点を示すようにして何気なく清臣の乳首に触れる。突然自分の躰を例に取られた清臣は目を瞠って、自分の胸を見下ろした。坂本の机に半ば腰掛けるようにして立っていた達哉も思わず三芳の指先を見る。透けたワイシャツの下に薄っすらと、清臣の乳首が色濃く見えた。
「お前らが女性に対して興味を持つのは、下半身か、或いはこの胸の部分だろう。女性もそれを意識して、夏の内は大きく見せては男性を誘惑する。プールや海辺に出かけると、それは如実に感じるだろう」
 言いながら三芳が、指差した清臣の乳首を押し潰すように力を篭めた。清臣は最初、背を丸めてその力から逃れようとしたがしまいには三芳の腕に手を掛けて取り払おうとし始めた。
「遅刻した罰だ、――ワイシャツを脱ぎなさい」
 三芳は事も無げに、三芳の手を嫌がる清臣に命じた。さすがに達哉は立ち上がると、反論した。
「ちょっと、いいじゃないですか。清臣は俺に付き合わされただけなんだし――」
 清臣にワイシャツを脱げと命じた三芳が、ようやく腕を引く。詰め寄るように反論した達哉を振り向くと、怜悧な表情で口を開いた。
「遠藤、お前も脱げ。何を勘違いしているか知らないが、これはお前らが間違いを起こさないための説教だ。宮川の話を聞いただろう。……そうだな、お前にはコンドームを着けてもらう。お前は着けたことがないんだろう? 今から着け方を教えてやる」
 脱ぎなさい、と三芳はもう一度言った。達哉は、詰め寄った足を一歩引く。清臣が困ったように視線を彷徨わせていた。ワイシャツを脱ぐことくらい、暑い日には誰もがやっていることだ。しかしこの話の流れで、教師に命じられてするようなことじゃない。
「廣瀬、何をしている。早く脱ぎなさい」